闇の中で光るもの

 漆黒の闇という言葉がありますが、鼻をつままれてもわからない闇というもの経験したことはあるでしょうか。今の世の中は、夜でも光がいたるところにあふれており、闇を経験することが少なくなってきました。私は以前、ある夜、会合に出席するため、人里離れた所にあるお寺にでかけました。ちょうど月明かりのない冬場で日暮れが早く、お寺についたときにはあたりは真っ暗になっていました。お寺からすこし離れた所にある駐車場で車をとめ、寺に向かおうとするのですが、あたりはそれこそ鼻をつままれてもわからないような真っ暗闇で、目が暗闇に慣れるまでは身動きをとることもできないほどでした。目が慣れた頃を見計らいあぜ道のような細い道を手探りで恐る恐る歩いて行くと、しばらくして前方にかすかなお寺の明かりが見えて来ました。明かりを見るとたちまちやれやれと安堵したのことを覚えています。人間は誰でもそうだと思うのですが、暗闇の中に光をみつけると安心するものです。
 昔、数名の漁師たちが小舟に乗り夜釣りに出かけました。その夜は月明かりもない真っ暗な夜でした。そのような夜は、船のかがり火の光を求めて魚たちがやってくるのでたくさんの魚がとれるのです。予想通り無数の魚が船の周りに集まりどんどん魚がとれたのです。何時間か経過した後、もとの港に帰ろうとしましたが、夢中になって釣りをしている間にどうやら潮に流されたらしく、帰る方向がわからくなっていました。どちらが港なのか、どちらが沖の方なのか、目を凝らして見れども当たりは漆黒の闇が広がるばかりで皆目行くべき方向がわからないのです。そこで釣り人達は、少しでも自分たちの行き先が分かるようにと、松明を振りかざし海を照しましたが、光は近くの海を照らすばかりで何の役に立ちません。
 このままでは遭難してしまうと皆が気づいたとき、漁師は全員が恐慌状態に陥ったのです。あるものは怒鳴り、あるものは泣き叫び声を上げ、船の中は大変な混乱状態になりました。しかし、その時、船頭が皆にこのように行ったのです。「あわてるな。みんな落ち着け。そして、まずはかがり火を消せ。そして松明も消すのだ」。漁師たちは、そんなことをしたら真っ暗になり行き先が分からないではないかと口々に言い、明かりを消そうとはしません。しかし、船頭は落ち着いて、「いや大丈夫だ。私の言うとおり明かりを消してみよ」と再度いったのです。船頭の冷静な言葉に皆は我を取り戻し、言われたとおりかがり火と松明を消してみました。すると、漆黒の闇があたりを包みました。船頭はさらに続けて言いました。「しっかりとあたりを見渡すのだ」。皆が目を凝らしてあたりを見回すと、闇の広がるはるか水平線の彼方にかすかな光、町の灯りが見えるではありませんか。そのかすかな光を頼り一生懸命船をこぎ、無事に元の港に帰り着いたのです。
 このお話しを私たちの生活にあてはめてみましょう。かがり火は私たちの欲望だと言えます。魚たちはお金やものになります。かがり火(欲望)を大きくすればするほど、お金やものは集まってきます。夢中になりお金やものを集めますが、ある時ふとこのように考えます。お金やものは確かに集まったが、それで本当に幸せなのだろうか。小さな小舟にいくらたくさん魚を積み込んでも、帰るべき所が分からないと、結局は飢え死にしてしまいます。漁師たちと同じようなことに何かのきっかけで私たちは気付き不安になるのです。お金やものは私たちの人生に必ず必要なものです。しかし、私たちが歩むべき方向、心のよりどころがどこにあるのかがわからないとするならば、そのお金やものは私たちを幸せにするどころか、そのお金やものを持ちながら苦しんでいかねばならないのかもしれません。
 お金やものを求める前に、自分のよりどころ、帰るべき所を持つというのが人生において何よりもまず大事になるのでしょう。よりどころはどこなのか。人それぞれの考えがあるでしょう。私は、神仏への信仰心こそが人を導く灯台になると思います。明るくないと見えないものは多いのですが、しかし、闇になってこそ初めて見えるものがあります。一度かがり火を消してみましょう。みなさんの人生では、何が見えてくるのでしょう。あなたの行く方向に光は輝いているでしょうか。 
 

 
 

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