運命を変える出会い


 皆さまご存じのように、私は十輪寺の住職とちべん保育園の園長を兼務しております。ちべん保育園では季節ごとに様々な行事を行っています。中でも年度末三月の生活発表会は、子どもたちの歌や踊り、劇などを通して保護者に子どもたちの成長の様子を見ていただく一大イベントです。特に年長組の劇は子どもたちの熱演が評判で、生活発表会の見所でもあります。
 さて、生活発表会まであと二日前となったある年のこと、年長組の劇で主役をつとめる子どもが体調不良となり、劇にでることができなくなりました。一週間ぐらい前ならなんとか代役をたてることもできるかもしれませんが、本番は明後日です。しかも主役を中心に物語が進んでいくので、主役がいないと劇自体ができなくなります。
 私は心配になり主任保育士に「困ったね。どうしようか」とたずねると、主任は、「だいじょうぶですよ」と答えたのです。だいじょうぶといっても二日後なんだがと心配する私に主任はこう言いました。「子どもたちはいつもいっしょに練習しているので、自分の台詞、歌、振り付けだけでなく、お友だちのも自然と覚えてしまいます。だからもちろん少しおけいこはいるかもしれないけれど問題なくできるでしょう」。
 主役の長い台詞や複雑な振り付けが簡単にできるとはとても思えませんでしたが、いますぐにでもかなりできるので見て欲しいというので、早速、代役に選ばれた子の演技を見ることにしました。するとどうでしょう、もちろんすこしぎこちないところはありましたが、十分代役を務めることができる演技だったです。そして、当日、その子は堂々と主役を演じ無事に劇を終えることができました。
 人の名前が思い浮かばない。眼鏡がないと朝から大騒ぎ。二階に用事に行っては、何の用事で二階にきたのかわからなくなる。物忘れがひどくなる年代の者にとっては成長期の子どもたちの何でもかんでも吸収していく姿はただただうらやましいものです。
 目に触れるもの、初めて出会い経験すること、それが楽しいものであるのか、辛いものであるのかかかわらず、子どもたちはなんでも吸収していきます。そんな子どもたちだから故、何に出会い、何を経験するかにより彼らの運命も変わっていくのだと思います。
 かつてアメリカで、天才と呼ばれるような才能有る人々はどのようにして育ってきたのかを調べる調査が行われました。調査を始める前、調査に携わる人たちは、天才と呼ばれる人たちは、子どもの時から特殊な教育を受け、努力を重ねてきた人が多いのだろうと予想していたそうですが、結果は違っていました。
 天才と呼ばれる人たちは、決して特殊な教育を受けた人ばかりではなく、異なる様々な家庭環境の下で子ども時代を過ごしていたのです。しかし、ただ一つ共通点がありました。それは、子どものころに「ほめられたことがある」ということだったのです。しかも、大げさなものではなくちょっとした励ましの言葉のようなものだったのです。
 例えば、ピアノの天才と呼ばれる方は、子どものころピアノを弾いていると、母親が笑顔で「あなたのピアノを聞いているとほっとするの」と言ったそうです。その母の笑顔と言葉が励みになり気がつくとピアノでは誰にも負けないようになっていたのです。
 他の人たちも同じで、励まされるような一言や態度を身近な人より受けて、その言葉、態度に応えるように才能を伸ばしていったのです。これがもし逆ならどうだったのでしょう。邪魔だ。うるさい。静かにしろ。その一言で人が本来持つ才能は開花しなかったのかもしれません。
 出会い、経験により運命が変わる。だからこそ心から願うのは、子どもたちには、良き人と出会って欲しい。良い経験を積んで欲しい。そして持てる才能をどんどん伸ばして欲しいと心より思います。そして、もう一つ、できれば子どものころに神さま、仏さまとの出会いがあって欲しいと願います。なぜなら、辛いこと、困難な事があっても神仏に手を合わす心を持てば、きっと乗り越えていく力がでてくると思うからです。いつも神仏に見守られているという確信は何にも勝る力となります。家族そろって仏壇の前で手をあわせる。家族そろってお墓参りに行く。そんな経験は、ひょっとしたら子どもたちの運命を変えるかもしれない貴重なものになるのかもしれません。
 

 
 

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