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大欲得清浄
昔、ある国の兵士が戦の最中、窮地に陥った王様の命を救いました。王は喜びなんでも望みのほうびを与えようとその男に告げました。そこで男は、土地が欲しいと答えたのです。広大な領地を持つ王は、「よろしい。おまえが望むだけの土地をやろう。日が昇った時から日が沈むまでの間、進めた距離だけおまえのものになる」と言ったのです。
男は喜び、次の朝、日が昇ると同時に歩き出しました。歩けば歩くほど自分の土地が増えるのです。うれしくしてしかたがありません。歩いている内に、ふと気づきました。歩いていてはもったいないじゃないか。なにしろ時間が限られているのだ。多くの土地を得るにはできるだけ前に進まねばならない。そこで、男は小走りで進むことにしました。そのうち、歩みはどんどん速くなり、とうとう走り出したのです。さらに、普通に走っていては損をするということで、力の限り、全速力で走り出したのです。もちろん、飲まず、食わず、休憩もしません。ひたすら全速力で走り続けるのでした。日が暮れるころ、男は信じられないぐらいの距離を走りきり、想像もできないぐらいの広大な土地を手に入れたのです。しかし、日が沈みきった時、力を使い果たした男は息絶えていたのです。
欲は欲を生み、さらに次の欲を生みます。その果てしない欲を満足させるために、人は欲の上に無理を重ねる続けます。たとえ人をだましても、苦しめて、悲しめてもかまわない、自分の欲望を満足させることができれば・・・・。限りなく大きくなった欲に私たちは押しつぶされてまい、他人を苦しめ、自分の人生も台無しにしてしまうのです。考えてみると、人生のトラブルの多くは、制御できなくなった欲によることが多いものです。だから仏教では、トラブルの元となる欲を捨てよと説きます。しかし、欲をなくすことは、不可能に近いものです。なぜなら、そもそも生きていること自体、生きたいとう生存欲があるからこそでしょうし、また、欲があるから人間は、自身を高め、向上していくことができるのも事実です。
真言宗のお寺では、理趣経というお経をよくお唱えします。真言宗のとても大切なお経で、十輪寺の朝も理趣経の読経で始まります。そのお経に、「大欲得清浄」(たいよくとくせいせい)という経文がでてきます。大きな欲を持てば清らかさを得ることができるという意になります。つまり、欲は不浄なものでも、捨て去るものでもなく、清らかで大きな欲を持ちなさい説くのです。
大きな欲とは、菩薩がお持ちになられる欲です。菩薩とは、悟りの世界にお渡りになる資格を持ちながらも、あえてこの世にとどまり、苦衆救済にあたる方のことです。地蔵菩薩もその一人で、全ての人を救いたいという欲、誓願をお持ちになっておられます。大欲とは、地蔵菩薩のように一人だけの幸せを求めず、皆が幸せになることを願い、行動しようとする欲なのです。そのような欲ならどんどん持ちなさいと理趣経は説くのです。大欲を持った者はどうなるのでしょう。「大欲得清浄」に続けて、「大安楽富饒」(たいあんらくふうじょう)という経文が続きます。すなわち、大きな安らぎ得て、繁栄すると理趣経は説くのです。
欲には二種類の欲があると言えるのでしょう。一つは、人を破滅に追いやる欲ともう一つは、自分も他人も幸せにすることができる欲です。その違いは、自分の利益のみを貪り求めるか、それとも、相手の幸せをまず先に考えるか、心の持ち方によるのです。今もヨーロッパを始め、世界各地の多くの国々で戦が続きます。宗教、人種、主義の違いが争いを原因だと言われていますが、根本は、自分の利益のみを考える欲から生まれているように思えます。国の指導者には理趣経の心、大欲を持って、人々を幸せに導いていただきたいと願います。
令和4年4月