引導作法 ~彼岸に想う~

 昔、十輪寺の本堂で葬儀があり、当時、住職をしていた祖父が導師をし読経をしていました。すると、突如、棺のふたが開き、亡くなられた人が立ち上がたのです。本堂は大騒ぎになり、参列していた人たちはみな慌てて外へ飛び出しました。祖父が恐る恐る近づいていくと、「水をくれ。のどがかわいた」と言ったのです。水を差し出すとごくごくと飲んでこんな話をしてくれたそうです。
 暗闇が続く中、細い道を歩いていくと、大きな門が見えてきた。門を通り抜け入ろうとすると門番がいて、「おまえはまだ入れない。帰れ」と言うのだ。とまどっていると、門番は、「もうすぐ娑婆にもどる門が閉まってしまうぞ。早く行け」と急かすので、あわてて走ってもどってきた。いっしょうけんめい走ってきたのでのどがかわいたとのこと。祖父はこの話をしたあとはいつも、亡くなっても24時間は様子を見ることが大事だとよく言っていたものです。
 真言宗では、葬儀の際、僧侶は亡くなった方を仏の世界へ引き入れ導く作法である引導作法を修します。引導作法に従い導師は剃刀をあて剃髪(ていはつ)をし、戒と戒名を授け、故人を仏の弟子にしてあの世に旅立たせる準備をしていくのです。当然のことですが、引導作法を修するあたりなによりも大事なのは、導師をする僧侶が霊魂、そして、あの世の実在を確信していることでしょう。その確信を持たず修することができない作法なのです。
 しかし、昨今、霊魂や来世などないと言い切る人が増えてきました。祖父の死者が生き返る話のような臨死体験は、仮死状態において脳がまぼろしを生み出しているにすぎないとの説が主流になっています。霊魂もあの世もないのだから、葬儀も不要。そこで、葬儀をしないで火葬場へすぐに行く直葬(ちょくそう)や、お墓もない樹木葬や散骨が珍しくない時代になっています。自分のことなのだからどのようにしようとも勝手でしょう、といわれればそれまでなのですが、死は死にゆく者だけの事象ではなく、残された者たちにとって悲しみ、不安、時として耐えきれない感情に苛まれる一大事なのです。
 インドである母が最愛の我が子を亡くされました。母は毎日悲しみに明け暮れるのです。何日経っても悲しみから立ち直ることができず、最後にお釈迦さまに助けを求めました。お釈迦さまは、悲嘆に暮れる母を見て「家々をまわり芥子(けし)の種をもらってきなさい。ただし、今まで一度も死者をだしたことのない家でないといけない」と告げたのです。きっとお釈迦さまが芥子を使って生き返らせてくれるのだろうと信じたのでしょう、母は芥子の実をもらいに一軒一軒訪ねていくのです。しかし、どこの家にいっても、死者を出していない家などないのです。去年母をなくした。数年前に父を亡くした。祖父母を亡くした。あなたと同じようにかわいい子どもを見送った。そのような家ばかりなのです。家々を訪ねながら、母はついに諸行無常の理を悟り得、悲しみを乗り越えることができたと言われています。
 人間は、時として、受け入れがたいことを全て一度には受け入れることはできない場合があります。そのような受け入れがたいことも、ちょうど階段を上るように、一つ一つ受け入れていくことを通して全てを受け入れることができるようになります。一軒、一軒芥子の種を求め訪れるその行為が、別れを受け入れる為の階段であり、悟りへの階段だったのでしょう。また、考えて見ると家々を回るその行いが母にとっては「葬儀」であったとも言えるかもしれません。
 真言宗の葬儀では、亡き人はすぐにあの世に向かわないとされます。亡き人は四十九日の間、あの世に旅立つことなく、この世とあの世の間、中陰に留まり一週間ごとに仏の教えを受けます。そして、四十九日目の満中陰にようやくこの世を旅立っていくのです。この期間に仏の教えにふれた亡き人の魂は、死を徐々に受け入れていくとされています。遺族もまた同じように徐々に落ち着きを取りもどし、大切な人、愛しい人との別れを受け入れられるようになることでしょう。もちろん全ての人がそうだとは限りませんが・・・。そして、百日目に亡き人も残された人たちも百箇日をむかえます。百箇日は、卒哭忌(そっこっき)ともいわれ、そろそろ嘆き悲しむのを止めて、気持ちを切り換え、亡き人も残された人もしっかりと前を向き歩んでいこうとする区切りの日なのです。この世は全て諸行無常と分かっていても、やはり死に直面した時、誰しも受け入れがたい苦痛を感じることでしょう。そのような我々に、亡き人も、残された人も恐れることなく、ちょうど一段、一段、階段を上るよう受け入れていきましょうとするのが引導作法であり、葬儀の本質ではないかと感じます。
 あの世があるのか、ないのか、人それぞれの考えがあります。葬儀、供養のあり方も様々な考え方があることでしょう。しかし、どんな形であろうとも、故人を偲び手をあわせる場を持つことは、人間にとって必要なことなのでしょう。亡き人が大切な人であればあるほど、それはとても大事な場となることでしょう。そして、魂が存在するとするならば、それはまた、亡き人にとっても同じく必要なのだと思います。

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