コンセントは抜けていませんか

 ある日、テレビを見ようとしてリモコンのスイッチを入れたのですが、テレビはうんともすんとも言いません。どうやらリモコンの電池切れのようです。さっそく買い置きの新しい電池に入れ替え、再度リモコンのスイッチを入れてみました。ところがまたもやテレビはつかないないのです。
 もう10年以上使っているテレビなので、もしかしたらどこかに不具合が生じたのかもしれません。素人では修理が無理なので、電気屋さんに修理をお願いすることにしました。すると、修理には伺いますが、コンセントは抜けていませんか?テレビの裏を見てコンセントがちゃんとささっているかを確認して欲しいとのこと。そんなバカなことと思いながら、言われたとおり裏側を見ると、見事にコンセントが抜けていたのです。コンセントをさしてリモコンのスイッチを入れると何事もなく画面が現れたのでした。
 物事がうまく行かないとき、人間はあれやこれやと原因をつきとめようとし、事態の改善をはかろうとするものですが、あまりにも基本的なところにトラブルの原因があるとかえって気づかず、問題の解決が遅れるということがあります。まさかと思うような基本的なことにまず目を向ける、これが問題解決の一番の近道だといえるのかもしれません。
 さて、私達は日々に幸多かれと願い信仰をしているのですが、残念ながら、懸命な信心にもかかわらずなかなか思う通りに行かず、悩み、迷い、時としてせっかくの信仰を止めてしまうこともあります。このような時も、信仰上忘れてはならない何か基本的なものがおかしくなっているのかもしれないと考える必要があります。
 かつて智辯尊女がお百度を踏まれている方を叱られたというお話が今なお語り継がれています。お百度を踏むことは本来尊い行なのですから、ほめられることはあっても、叱られることなどないはずでしょう。しかし、智辯尊女は、お百度を踏みながら抱く不平不満の心を見透かされ、そのような心にて行ずるお百度はだめだ、とおっしゃったのです。
 智辯尊女は、おかげをいただこうとするならば、じっとしていてはいけない、しっかりと行を積むことが大事だとお説きになられました。更に、いくら行を積もうと、肝心の心が御本尊さまの御心に添っていないなら、せっかくの行もおかげを産み出さないともお説きになられています。御本尊さまの御心に添った心で行ずる。これは、おかげをいただく上での基本中の基本といってもよいことでしょう。
 花を咲かせようと思っても、ただひたすら地面をにらみつけているだけでは、花が咲くはずもありません。自分が咲かせたい花の種を播き、育なければいつまでたっても花は咲かないのです。種を播くのを怠り、これだけ水を与えているのにと不満を口に出したところで、肝心のことをしていないのならどうしようもありません。
 おかげも同じく、善根という種を播き、そして種への水やりが種を成長させるように、清らかな心を添えてこそおかげという人生の実りを手に入れることができるのです。善根の種も播かずして芽がでないと嘆き、また、せっかく種を播きながらも不平不満の心で芽生えつつあるおかげを枯らしてはいないでしょうか。おかげをいただけないと嘆く前に、己の行いと心のあり方を振り返る必要があるのです。
 コンセントは抜けていませんか?これは信心をしている全ての人にとっても、とても大事な質問なのかもしれません。

平成13年妙音新聞掲載文より一部加筆修正

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