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逃げまわる魚
保育園のホールには水槽があります。水槽といっても普通の魚がたくさん泳ぐ水槽ではなく、アクアリューム水槽と呼ばれるものです。アクアリューム水槽では、魚よりも水草が中心となります。水中で活き活きと生い茂る水草は見る人の心を癒やします。しかし、子どもたちは、水草よりも水草の合間を泳ぐ魚に興味があるようで、水槽の前を通るたびに楽しそうに魚たちが泳ぐ様子を見ています。機嫌が悪くて泣いている子どもでも、水槽を見ていると気持ちが和らぐのでしょうか、泳ぐ魚を指さしていつの間にかニコニコするようになってきます。
水槽は汚れが徐々に蓄積するので、一年に一度大掃除が必要となります。横60cm高さ30cmのそんなに大きくない水槽ですが、掃除は大変面倒なものです。水を浄化するフィルターなどを取り外し、水草を含め水槽の中に入っているものを全て取り出し、水を抜き掃除をします。その際、一番手間がかかるのが魚たちです。アクアリューム水槽なので多く魚はおらず、せいぜい10匹程度なのですが、これがけっこう難儀するのです。水をぬくのですから、全ての魚を別の水槽に移動させる必要があります。小さな網ですくうのですが、水の中の網はうまく動きません。その上、魚たちはとてもすばしっこく、なかなか捕まえることができません。それに、無理に追いまわすと魚はショックで死んでしまうことがあるので、できるだけゆっくりと追いかける必要があります。一時的に別の水槽に移すだけで、取って食おうというわけではない。もうおとなしく網に入ってほしい、と思っているのに魚は逃げまわるのです。
あるとき、この作業をしていると、ふと思ったことがあります。網は仏の救いの手、魚は人間ではないだろうか。仏がせっかく助けてやろうとしているのに、魚と同じように私たちは逃げまわる。助けてあげようとしているのになぜ逃げまわるのか。それは多分、魚と同じく、私たちも仏の慈悲を知らず怖がっているから・・・。
唐の時代、白居易(はくきょい)という有名な詩人がいました。仏教に興味を持った白居易は、ある日、当時名の通った僧侶であった道林禅師を訪ね、仏法とは何かと問いかけるのです。
諸悪莫作(しょあくまくさ)
衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)
自浄其意(じじょうごい)
是諸仏教(ぜしょぶっきょう)
悪いことをしないで良いことをし、心を清める。これが道林禅師の答えだったのです。高尚な答えを期待していた白居易は、失望し、そんなことは子どもでも知っていることだとあざ笑ったのです。すると、道林禅師は続けて、「3歳の子どもでも分かるが、80歳の老人でもできないこと」とたしなめられたのです。
仏は、我々に悪いことをするなと説かれますが、私たちはなかなかその教えをそのまま受け入れようとはしません。なぜなら悪いことをしているほうが得るものが大きいように思えるからです。だからそのようなきれい事を言われても、私たちは損をするばかりで生きていけない。そんな教えは聞きたくもないと逃げまわるのです。その姿は、水槽の水がもうすぐなくなるのを知らず、網にすくわれまいと逃げる魚と同じなのかもしれません。しかし、諸悪を重ねるそのような人生はいずれ崩壊し、苦しんでいかねばならないのは明らかなのです。仏はそれを哀れに思い、早くこちらに来いと救いの手を差し伸べて下さっておられるのです。
虚空尽き 涅槃尽き 衆生尽きなば 我が願いも尽きなむ
弘法大師万灯万華願文より
仏は衆生を救おうとする時、決してあきらめることはありません。一切を漏れなく、最後の一人まで助けなければ、私の願いも尽きることがないと、お大師様がおっしゃるように、逃げようとする我々を、逃げても、逃げても、追い詰めて、網に入れようとされるのです。なんと有り難いお心なのでしょう。
令和3年5月