孤独

 
 文部科学省の「2019年児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査」によると、学校におけるいじめの件数は過去最多を更新したそうです。いじめ防止対策推進法施行がされ、様々な対策がすすめられているにもかかわらず、学校でのいじめは依然憂慮する状態にあります。かつてマット殺人と呼ばれた凶悪ないじめが話題になりましたが、いじめは、このような暴力によるものだけではありません。いっさい口をきかない。話しかけない。クラス中で無視をする。その場にいるのにいてないように扱う、いわゆる「シカト」とよばれるいじめもあるのです。暴力よりましだと思われるかもしれませんが、「シカト」は、暴力と同じぐらいか、それ以上に陰湿、陰惨ないじめなのです。
 人の間と書いて人間になります。この字の通り、人間は本来、人の間と間にあり、寄り添ってこそ生きていくことができる生き物なのです。だからこそ、人間は人から離れてしまった時、計り知れない苦しみを感じるのです。「シカト」するということは、本来寄り添って生きていこうとする人間性そのものを否定してしまう、陰湿、陰惨ないじめだといえるでしょう。実際、シカトされた子供は耐えきれず、登校拒否や最悪の場合は自殺に追い込まれることもあるのです。残念ながら、時として人間は孤独を感じざるを得ない状態に追い込まれることがあります。いじめのように、理不尽にも多くの人間に囲まれながら孤独を味わざるをえないこともあるでしょう。そのような時、私たちはいったいどうすればよいのでしょう。
 ある修行僧がただ一人長期間山に籠もり厳しい行をしていました。何日もの断食や凍えるような寒さの中での水行といった荒行を乗り切ってきたのですが、日がたつにつれ孤独に耐えられなくなってきたのでした。ある夜、その孤独に耐えかねて、とうとう修行を止め、山を下りようとお堂を抜け出すことになったのです。ふもとを目指して山道を歩いていると、木々の間からかすかに遠く離れたまちの明かりが目に入ったのです。その明かりを見て、「あぁ、私は一人ではない。この瞬間にも多くの人々がこの世で存在し、生きているのだ。そして、私の行が無事に終わるよう祈ってくださるかたもいる」そう感じた時、今までの耐え難い孤独感は消え去り、無事行を終えることができたそうです。
 断食や水行といった荒行を乗り切ることが強靱な行者が、寂しさに負けそうになる。孤独がいかに恐ろしいものか、そして人間というのはいかに弱いものかをこのお話しから感じることができます。そのような私たちですが、心の持ちようによっては、孤独を乗り越え、力強く歩むことができるのも事実です。
 私達は、今この瞬間も呼吸をし生きていますが、空気の存在を意識することはありません。神仏もまた私達が意識しようとしまいと、あたかも空気のごとくこの世のありとあらゆるところに偏在されているのです。つまり、自分がどんな状態にあっても神仏は確かに私達とともに在られ、私達を見守って下さっておられるのです。絶えず側にいてくださる。この気持ちがあれば、人間は少々の苦しみも堪え忍ぶことが可能になるものです。そしてこの心こそ信仰者の強みだといえるでしょう。

 あなたは決して一人ではない。
 姿は見えないけれど、
 必ず、必ず支えてくださる方がいる。

   

令和3年4月 
 

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