不思議


真言は不思議なり。観誦(かんじゅ)すれば無明(むみょう)をのぞく

 このお大師様のお言葉に出てくる真言とは、サンスクリット語のマントラを訳したもので、その名の通り真実の言葉、もしくは秘密の言葉意味し、真言には仏の教えそのものが含まれていると言われています。また、真言宗では数多くの神仏の存在を認め、その神仏ごとに異なる真言があると説いています。例えば、私が住職をしている十輪寺の本尊、地蔵菩薩の真言は、「おんかかびさんまえいそわか」です。

  おん       崇拝する
  かかか      笑い、地蔵菩薩を表す言葉
  びさんまえい   めずらしい、すばらい
  そわか      成就あれ

 このように4つの言葉(サンスクリット語)から成り立っている真言なのです。あえて訳すと、「すばらしいお地蔵さまを拝ましていただきます」とでもなるのでしょう。しかし、それがどうしてこの言葉が不思議なのでしょうか。なぜ無明をのぞくことができるのでしょう。
 50年近くも前のこと、私は祖父と妹とともに辯天宗大和本部(現総本山如意寺)に住んでいました。当寺、高校生だった私はあることで悩んでいました。今から考えるとたいしたことはないことなのですが、当時の私にとっては、深刻な問題だったのです。ともかくやらなくてはならないことが多々あり、期限が迫っている。なのに少しも前に進まないのです。焦りが迷いを生み、迷いが焦りを生み、とうとう食べものものどを通らない、気が高ぶり寝ることもできない、ノイローゼのような状態になっていたのです。そんな私を見かねて、妹が「お兄ちゃん、そんなに悩んでいるのなら、お百度を踏んでみれば」とアドバイスをしてくれたのです。
 藁にもすがりたい思いだった私は、妹のアドバイスに従い早速お百度を踏むことにしました。本堂の前でお百度の数取り棒を持ち、辯才天の御真言(おんそらそばていえいそわか)を唱え、お百度を踏み始めました。祈るときは雑念に悩まされるものですが、その時は救われたいとの思いが強かったかったのでしょうか、無心に、ただひたすら祈ることができたように思います。
 一周もいかない、ちょうど半周目、自分の身体が本堂正面にむかう時、火の玉のようなものが本堂から身体に飛び込んでくる感覚がしたのです。はっと気がついたとき、不思議なことに、迷い、あせりなど自分を苦しめてきたものが、その瞬間に一切消え去っていたのです。しばらく立ち止まり呆然としていました。冷え切っていた心がエネルギーに満たされ、温かさで満たされた感覚がします。100回るつもりで始めたお百度ですが、その半周で打ち切ってしまい、すぐさまやらねばいけないことになんの迷いも焦りもなく取り組んでいったのです。
 それから十数年の歳月が経ち、私は病院の一室で苦しんでいました。ひどい嘔吐が止まらず治療を受けることになったのです。診断によるとどうやら食中毒、前日の会席でいただいた食事が原因のようでした。ひたすら吐き続け、なにも吐くものがなくなっても吐き気は止まりません。身体は冷え切っており、全身の震えが止まりません。脱水症状を起こしているので水分を補給する必要があるとのことですが、水を飲んでも吐き出すだけだから点滴をすることになりました。
 ベッドに寝かされた身体に点滴の針を通して液が入ってきます。すると、全身に液剤がしみわたる感覚がし、冷たかった身体が徐々に温かくなってくるのです。点滴とはありがたいものだと感じると同時に、ふとこの感覚に覚えがあると気づくのです。そう、10年前にお百度でのあの感覚と同じだと。そしてその時、あの時、私がいただいたのは心の点滴だったのだと確信したのです。
 オカルト的なお話しになりましたが、でも決してフィクションではありません。50年も前のことですが、今でもあのときのことをはっきり覚えています。真言は不思議なり。なぜ不思議なのか。答えは不思議だからとしかいえないのです。大事なことは、観誦すればとあるように、いくらたくさんの真言を覚えようとも、真言の意味を学ぼうとも、唱えなければ意味がないのです。真言は理屈ではないのです。一心にひたすら祈ること。それだけなのです。しかし、それがまた難しいのです。

令和3年4月 
 

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