琴の弦のように


 朝、子どもたちが元気に保育園へ登園してきます。大きな声で「おはよう」とごあいさつをする子どもたちの声を聞いているとこちらも元気がでてきます。ある日のこと、男の子が私に「おはよう」と言った時のことです。お母さんは、「おはようじゃないでしょ。おはようございますでしょ」と言ったのです。お母さんの理屈は、おはようは友だちへの挨拶、自分より年上の人、ましてや先生に使う言葉ではないということなのでしょう。これは正しいこと、まさに正論なのです。お母さんは子どもが正しく挨拶をして欲しいと願い言ったのですが、元気に「おはよう」とごあいさつをした子どもはしゅんとしてしまいました。次の日から「おはよう」と声をかけても、その子は無言で通り過ぎて行くようになったのです。小さな子どもにとって、「おはよう」とごあいさつをするのは勇気のいることなのです。勇気を出して「おはよう」と言ったのに・・・。もう言わない、ということなのでしょう。子どももお母さんも少し元気がありません。
 お釈迦さまにソーナ・コーリヴァイーサ (二十億耳 にじゅうおくに)という弟子がいました。彼は大金持ちの家に生まれました。生まれた時、全身が黄金色に輝いており、喜んだ父親が20億もの金を与えたので、黄金を意味するソーナ、そして20億を意味するコーリヴァイーサという名がつけられました。父親はソーナをとても大事に育て、ソーナの為に惜しみなくお金を使いました。小さな時からソーナにはたくさんの従者があてがわれ、ソーナの世話をしました。ソーナがどこへ行くのも従者が台座を用意し、その上にソーナをのせて移動したので歩く必要はなかったそうです。歩く必要がなかったのでソーナの足の裏には毛がはえていたといわれています。
 そのソーナがある時、お釈迦さまと出会い、弟子になることを決意し出家をしたのです。出家したソーナにはもう従者はいません。他の弟子と同じように、人の助けを借りずに行をしていかねばならないのです。毎日、皆といっしょに托鉢をするのですが、今まで歩いたことがないソーナはまともに歩くことができません。それでも毎日歩き続け、彼の足はいつも血まみれになるほどでした。しかし、そのような苦労し、何年も托鉢の行を続けたのですが悟りを得ることができませんでした。ソーナは悲観し、これほど努力をしても悟りを得ることができなのは、私には素質がないからだと思い、還俗(僧侶をやめてもとの生活にもどること)を決意するのです。そして、その想いをお釈迦さまに告げると、お釈迦さまはこのようにお説きになられたのです。

ソーナよ。あなたは出家する前、琴の名手だったと聞きます。
琴はどのようにすれば良い音がでるのでしょう。
弦を張りすぎるとよい音がするでしょうか。
弦をゆるめすぎるとよい音がするでしょうか。
あなたも知っている通り、弦をはりすぎてもいけないし、ゆるめすぎてもいけない。
これと同じように行き過ぎた努力もいけないし、少なすぎる努力だめなのです。
ちょうど良い努力が大事なのです。

お釈迦さまの言葉を聞き、極限まで追い詰められていたソーナは救われたのです。その後再び修行を続け、最後にはとうとう悟りを得ることができたのです。
 考えて見ると子育てもまた琴の音と同じなのかもしれません。良き子に育って欲しいというのは全ての親の願いでしょう。しかし、子育ても、求め過ぎてもいけないし、求め過ぎない(放任)のもまたいけないのでしょう。テストで97点取ってきた子どもに、どのように声をかけるでしょうか。あと3点がんばれば100点だったのに・・・・。それとも、よくがんばったね!でしょうか。どちらが子どものやる気を引き出すのでしょう。子どもの顔を思い浮かべて考えて見ると答えが出てきそうです。
 
さて、挨拶をしなくなった子どもですが、しばらくしたある日、どういうわけでしょう、また「おはよう!」と挨拶をしたのです。するとお母さんは「よくできたね」と、とてもうれしそうに子どもを抱きしめたのです。そして、「次はございますも言えるかな~」とさらにギュッと抱きしめると、子どもはにっこり笑って「うん」とうなずいたのです。お母さんも、ボクも100点、よくできました。

令和3年4月
 

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